26時のコンクリートについて


気がついたときに私の体はマンションの鉄扉をすり抜け、26時のコンクリートに立っていることがあります。26時はコンクリートが昼の太陽熱を放出し終える時間なので、とりわけ冬になるとそこは誰も居ないスケートリンクのように見えます。私はまだ定まらない意識をふらつかせながら自動販売機で熱いコーヒーを買い、いつもそこにある公園の石畳に座ります。たいてい向かいの黒いベンチにはホームレスが寝ています。

別の26時には、私はコンビニによく行きます。コンビニには若い肉体労働者が何人か吹き溜まっていたり、水商売のひとが煙草を買っていったり、私のような亡霊が佇んでいます。亡霊は四角い店の端と端にいて、雑誌を読んでいたり店員を探しています。

暗いコンビニの売れ残りの匂い。

高度経済成長の勢いに呑まれ、私の街はコンクリートで幾度となく埋め立てられました。石灰石とセメントは陰気な香りがします。埋められた海底から半世紀前のセメントが立ちこめるのです。私の街は陰気です。

考えごとに耽りたい26時には、私はコンクリートの堤防のはじに居ました。人らしい人もおらず、警察もまさかこのような場所にいる人間など気がつかないので、色々なことを考えることに適した海なのです。全ての母である海はゆりかごのようにやさしく海面をくゆらせているので、向こう岸の工業団地のランプの輝きがゆっくりと海に溶けて、だんだん奥へ沈んでゆくのを見ることが出来ます。その輝きを眺めていると、自然と私の悩みは解決されたような気がして、1人でもと来た道を帰ってゆくのです。

帰る途中、すれ違う人にはほとんど出会いませんでした。追い抜かしたパトカーも巡査も、私のことなど見えないようでした。