早漏をどうする

・私は早漏だ。2分も持たないだろう

・私は早漏です。2分も持たないでしょう。

どうなのだろうか、どちらがより腹立たしい早漏だろうか。後者の方がより紳士的な早漏であるような物言いだが、確実に早漏はそれ自体が重い罪なのである。さあ、早く殺してくれ。

いや、今回話題にするのは早漏 (早漏ゲシュタルト崩壊) の話ではなく、センテンスの終え方をほんの少し変えるだけで表情が変わってしまう文章の気難しさのことだ。

何と言っても「だ、である」文末は非常に都合がいい。これを使っておけば自分の主張に自信がなくても問題ない。書き手の文体をスマートに昇華させ、文章を読む側は実に自然に、主張の内容を理解する責任を負わされることになるからだ。そこまでしても自分に自信がないのなら、「〜という事象は周知の事実ではありますが」などと付け足してちょろまかせておけばいい、全くチョロい。

そう、やりやすい。ところがこの小手先の技は、この様に学の足りない高校生が使うと見抜かれる、そう見抜かれる。即興で考えながらスマートフォンのキーボードを叩いてはてなブログに載せた様なものはありったけ見抜かれるのだ。

ようはありったけのボキャブラリーと正しい助動詞のつかいかた、そして接続詞を選ぶセンスなのではないか...... 
ならセンスとは何なのか、ええ、ここで用いるセンスという能力は 『一般に知られている表現を別の言葉で印象的に表せる』 能力であり、全く新しい言葉を創り出す行為ではないのだ。むしろその方がよっぽど簡単であって、上記の「だ、である」文末のように押し付けをすれば成立する行為なのだ。

あなたは"センス"が欲しいだろうか、私は欲しい、センスあったらなんか友達とか作れる気がする。