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ペラい

卒業して、なんやかんやで増えていたラインの友達リストを一気に減らした。ツイッターの俗にいう「リア垢」も退会したし、携帯の連絡先も綺麗にした。

 

三年間を振り返ってみて、増えた連絡先が役に立った記憶がない。迷惑だったこともないけれど。友達リストの多さを自慢する人間にあまり腹も立たないし(お好きにどうぞ)私もそこまで切り詰める気もなかったので、ここまで綺麗さっぱり居なくなるとは思わなかった。

 

消えていった連絡先から二度と連絡がくることはないだろう。消したから来ないのではなくて、それを持っていようがいまいが向こうからメッセージが届くことは今までもこれからもない。ただ見える量での私の"友達"が減った。というだけだ。

 

そういえばラインの表示はどうして「友達」なんだろう。

学ラン

から東京で暮らすことになった。大学が東京にあるからだ。都内のわりと住みやすい、そのわりに賑わっていて都心へのアクセスも申し分ない土地を抑えることができた。いよいよ私が憧れていた都会ぐらしが始まる予定だ。

引っ越しの手続きや家具類を揃える必要があるので、この頃は度々東京へ行く。都会は若い人が多い。地元とは違って身なりがさっぱりした、忙しそうな若い人が多い。青い制服を適度に着崩した高校生の群れが交差点を闊歩している。アレが多分、私の憧れだった。私の幻想によると、都会の高校へ通う彼らの生活は多少の金はかかれど比べられぬほど刺激に満ちたものらしい。渋谷、古着、カフェ、クレープ、収録、ライブハウス、ディズニーランド、夜景、読モの友人...

 

東京に対する私の期待値が膨れ上がり晴れてお上りさんの一員と成り下がった私のサクセスストーリーが新天地で始まるのか...とりあえずは自決用の丈夫な縄をホームセンターで買おうと思っています。

茄子、無理。

(ナス)(🍆)の全てが嫌いだ。食感も、フォルムも、重さも、色も、名前も、ヘタも、字も全部大嫌いだ。いい加減茄子と向き合おう、克服しようとチャレンジして何度も吐いた。ホントに無理。今ググったら茄子が日本に上陸したのは奈良時代遣唐使は慎めよ。季節が本格的に秋になってくるとつい身構えてしまう。なんてったって茄子の旬だから。マジで、何。今の世の中、食おうと思えば茄子なんていつでも食えるもんに何故"旬"という叩き売りタイムセールシーズンを付属させたのか。これ以上作るな、これ以上価格競争させるな。(農家の方々には申し訳ない)

茄子と言えば焼きナス。焼きナスと言えばモストオブ無理。私と茄子とのファーストコンタクトは焼きナス。もちろん吐いた。紫ピクミン見るだけで殴りたくなる、多分茄子のせい。

そんな私が美容院で髪を整えて貰いながら茄子が嫌いな話をすると、「それってアレルギーとかじゃない?」と美容師のおねえさん。

 

ナニナニ??茄子アレルギー???

 

あ~~...確かに茄子を食べた後は喉が無性にイガイガしますよね~...

 

それそれ~~!!実は私も茄子アレルギーなんだよね(笑

 

そんな物にビクつきながら私は人生を無駄に擦り減らしていたのか...じゃあ最初から食えねえじゃん...茄子よ...お前のこと邪険にしてごめんな...

 

ってなった。

駅前でよくあること

改札を抜けると女の人と目が合った。私の首くらいの身長で、ぱっちりとした目の女の人と。彼女は私の存在に気付くなり駆け寄ってきてファーストコンタクト「神様を信じますか?」ああ、宗教か... 彼女の見た目からそのような幸福を科学するような、胡散臭さは一切感じられなかった。一目見ただけでは、彼女はカフェの店員のようでもあった。ただそのような特定の胡散臭さに感化された人間特有の、あの嘘みたいに澄んだ瞳の色だけが私を不快にさせた。

「神様を、信じますか?」という彼女の問いかけから私はただ曖昧に相槌を返す聞き手の役を演じるしかなかった。ただ、駅から家までの帰り道はどのみち一人だったし、彼女も大声を出して私に教えを説くようなタイプではなかったので特に何も考えずに「そうですね」「分かります」と言えばよかったのだ。彼女は幼児に語りかけるような、優しい顔をして私に、日蓮の話やアベの政治や第三次世界大戦のことを話してくれた。その間、私は相槌を打ちながらこの女の人も誰かと、セックスをするんだろうか。と思っていた。ただそれだけを考えていた。こんなに純真な目をして布教に勤む彼女もたまにはセックスしたり、セックスされたり、するのだろうかと思うと何故か不思議な気持ちになった。ただ、理想や未来や来世の話をする彼女から、鼻につく安酒のにおいがしたので、どこか俗世っぽさを感じたのかもしれない。

神を信じるか。私にとっては正直いうとどうでもいい投げかけだ。ただ神を信じているだろう彼女の、偽りのない語り方は嫌いではなかった。

最後の信号で意外にも彼女は別れを告げてくれた。予想と反して淡白な別れだったので私は、もっと真剣に話を聞いてあげればよかったなと、思った。

日記帳

私がつけている日記は、一般的な日記とは少し勝手が違う。私の場合、今日のように帰宅してほっと一息つき、さて、なにをしようかという段に、本当になにもするべきことがないなあ。と思ったとき、ふと「私は日記をつけていたな。そういえば、」という具合で日記帳の存在を思い出し、古い引き出しからまた一段と古いノートをいそいそ引っ張り出すのである。だから最後に書いた記録の日付が半年前、なんてことは日常茶飯事である。なにしろ同じノートを六年以上も前から使っているのだ、私ですら最後の頁にいつになれば辿り着くのか皆目見当がつかない。そう、今日はこの日記帳の存在を思い出す日であった。ミルクを飲みながらふと忘れていたものが復元した。

それくらい今日はなにもない素晴らしい日だった。

少数派という位置付けがなされている時点でそこに所属するものは少数派ではない

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スクールカーストを説明するとき、引き合いに出される構図は間違っている。階層序列はピラミッドではなく、いわゆる壺のような形をもって表されるはずだ。底辺層がここまで肥大化する筈がない。また、攻撃の対象にされるのがいつもピラミッドの底辺層であるという通念にも疑問がある。いわゆるイジメはどこの集団内でも起こり得る可能性を孕むものであり、ピラミッドの底辺層は存在を認知されていない場合の方が多いはずだ。

ここにおいて少数派はどこに位置するのか、上のグラフに当てはめるならカースト最上位層ということになるが、それでは少数派の語義と噛み合わない。つまりグラフが間違っているのであり、少数派という集団に入っている人間がどのような人種なのか。についての理解が進んでいない。少数派はそもそも顕在化されるものではない。本当のマイノリティの存在を可視化することは難しい、それらが本当の少数派である。"少数派"というタームはどうも都合の良いように使われている気がしてならない。

最近の所感 羅列 自己理解

非常にあっけなく2016年が終わった。今年の元旦はファミレスで雑炊を食べていた。謹賀新年感がまったくない。

新年そうそう色々なことがあったが、親戚にやはりよく出会った。私は若いのでよくお説教をされる。若い時の失敗談を話される。私のためになる話をするのだと見せかけて誰もが自慢話をしていた。

 

去年楽しかったことも全然覚えてないけどつらかったことも大して覚えてない、人間はこうやって忘却とひきかえに経験を得るのか。私が一番憂慮しているのは、過去の思い出を「美化」して、「デフォルメされた苦い記憶」と一緒にわかった気になってしまうことだ、18歳の時に感じたこと、初めてキスした時に感じたこと、本を読んで泣いたこと、こういう途方もなく理解に苦しむ感情を、ただ"あの時は若かった"だけで済ませたくはない。昔の私も大切にしていきたい。

 

ツイッターなんかやめたいなんかもう何十回もいってる。あんなのに傾倒するのはみんな馬鹿だと思う、あんなので分かった気になるなよ、馬鹿どもが。クソが。クソがよ。クソ